2007年11月15日木曜日

イリュージョンなしに世界は見えない

これはヒンドゥー教や仏教の話ではない。ドイツの生物学者 ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという人の 『生物から見た世界』で説かれる基本的な観点である。

世界はイリュージョンである という肯定的表現よりも、翻訳者である日高敏隆氏の、「イリュージョンなしに世界は見えない」という否定的表現の方が やはり、しっくりくる。

ユスクキュルの観察では、どの生物であれ、その生物にとって意味のあるものしか見えないのだという。
生物の身体の構造と欲求に限定された、無数の『世界の見え方』 だけがある。

人間の見ている世界もまた、人間という生物種(身体構造)だけのものである。
ただ、面白いのは、人間の「欲望」は、生物としての「身体的欲求」とは ズレているという点だ。

岸田秀氏のように、この部分を強調して論を展開すると それはそれなりの 首尾一貫したおもしろい物語が語れる。

人は、たいていの場合、『なんだろう?』と、暗黙のうちに問いを持って モノを見る。
それが、『なにである(=意味)か』 を 特定しようとしている。

何であるか は、状況によって変わる。

短距離競争を「しよう」と言うとき、これから走る地面に転がっている、石ころが目に飛び込んで来る。
山でキャンプをしていて、変形した器具を叩いて修理する必要に迫られているのに金槌がない、という時、辺りを見回すと 石が転がっているのが目に飛び込んで来る。

同じ 石ころ でも、何であるか=意味 が変化する。

これから走ろうかという時の、地面に転がっている石ころは邪魔な危険物であり、キャンプの時の石ころは、修理に使える道具だ。
壮大な風景を眺め、感動に浸っている時、足元の石ころは「意味」がない。それは、視界の隅に映ってはいても、まるで「見え」てはいない。

「見えるもの」とは、このように、「求め」に応じて、現われて来たものだ。

なんであるか(意味)と見るとき、求め欲する気分が先行している、あるいは、見る前に、「求め」を投げ掛けている。求め、欲するとき、目はサーチライトのように 注意を収束させながら くるくると探索する。

キャンプで、壊れた器具を叩いて修理したい時に、水辺で水面に浮いているカエル は「意味」がないので、目に入ってこない。しかし、遭難して何日も食べて おらずお腹がぺこぺこで命にかかわるときには、カエルには 意味(たべものだ!) と 価値(石ころより重要だ!) が 生じる。

意味は カエルや石ころ、それ 自体 には「ない」。


これはコトバの場合も同じで、コトバ「そのもの」には、ほとんど意味がない。

金槌の代わりになるようなものを探している人が、「カエルはどうか?」という コトバをかけられるとする。彼にはこのコトバの「意味」が全くわからないはずだ。しかし、餓死しかかっている人には、すぐに「意味」が分かるだろう。

人間にとって 『 世界 』とは 目に見え、耳に聞こえる範囲の事ではなく、見えていないところ、そして時間的な広がりを含めて これまでに得たコトバや 映像の全てを組み込んだ「イメージ」であり、その 脳裏に組み立てられた『 世界 』の中での「 欲望 」を持ってしまうからだ。


壮大な風景に感激して写真におさめたはずなのに、出来た写真では「そのように」は映っていなかった、という事はよくある事だ。

セザンヌの描くセント・ヴィクトワール山は、他の山々から抜きん出た存在感(大きさ、高さ)を示しているが、同じ視点から撮られた写真ではそれほど大きくはない。しかし、セザンヌの目はそのように「見えた」のだ。

人間にとっての世界は観念(幻想)だから、この世界の中で生じる欲望もまた、幻想であり、それを投射しながら、「見よう」としている。

幻想としての欲求、すなわち夢を通して「何であるか=意味」を見ている。

人が外や心の中に見るものは その人の欲望(関心)を映し出していると言ってよい。

心の中であるか、外であるかを問わず、「見えているもの」とは、「欲望のカタチ」であり、自分自身が映し出された姿でもあるのだ。

人間以外の動物は、「壮大な大自然の景観」を見たがったりはしない。


透視能力者が、カラダの中を見たり、遠隔視能力を持つ人が遠くのものを見たり、霊視者が死んだ人の姿を見たり、幽体離脱してあの世を見たりする場合でも、例外ではない。 モノもコトバも、欲望を満たす可能性、あるいは欲望を障害する可能性として、たち現われ=見え て来くる。


この時、人間的欲望(幻想)が投影されているのは、視野の中心部のようだ。

テレビを見ている時、意味が映し出される視野の中心部には「映像」だけが見えているが、視野の周辺部に映る 画面枠やテレビの本体、周囲の壁やドアなどの風景は、視野に映ってはいても、まったく、見ていない。
これは、本を読んだり、携帯電話を操作しているときも同じで、文字を追っている時は、意味だけを追い、携帯電話の色や形、本を持つ自分の手や指は見ていない

焦点が解けて、「ただ単に眺めている」とき、世界は 「意味の可能性を潜めた風景」として目に映って来るだけで それが何であるかという「意味」を持っていない。

この意味が生じる前の風景は、色鮮やかで、それでいて なぜか、すっきりとして穏やかで、軽やかである。

江戸時代の僧 盤珪(ばんけい)が 『不生 と呼んだのは、おそらくは、この 意味が生じる前の風景のことだ。



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