タイトルを思い出せないのだが、竹田青嗣氏(哲学者)の著作に面白い話が載っている。
幼い子供が かくれんぼ で遊んでいて、『頭かくして尻隠さず』という状態で隠れているとき 自分の視界には相手は見えないので、相手からも自分が見えないと 思っているのではないか。というのだ。
「自分の視界=世界」の中から相手が消え去った以上、相手は存在しなくなるはずで、存在しない相手に見つけられることはないはずだ。
だが、実際には、あっという間に、見つかってしまう。
この見つかってしまうという現実が、彼に「自分の認識は 不完全な思い込み に過ぎない」、と思い知らせることになる。
徐々に子供は、 「 相手と自分の位置関係 」を、どう捉えればいいのかに気づく。
天井の辺りに、空想上の目を置いて 空想の部屋の全体を見るのだ。
検証を繰り返して、実際に、相手から見つからなくなれば、この「空想」は、「正しさ」を証明されたことになる。そして、この「想像図」が、自分の目に実際に映る「主観」よりも 信用に値するものとなって来る。
この想像上の視線を 「客観的視線」 と呼び、想像図 の事を、「仮説」と呼ぶ。
目をつぶれば 世界は目の前から消滅するが 『見えていなくても、実際には 同じ世界が そこに存在している はずである』という確信(信憑)が形成される。
いったん確信に至った仮説は、『思い込み』となり、そもそもが想像上のものであった、という事を忘れる。
『 自分の目には このように映っている 「から」 世界の存在を確信出来る 』はずであったものが、『 世界が存在している「から」自分の目に 映っている』という確信に変質する。
因果の転倒が起こるのである。
「科学」は「確固たる客観世界が存在する」という信念を大前提として、世界の物語を組み立てようとする。
しかし、認識がコケていようが、ひっくり返っていようが、実効性のある(かくれんぼに成功する)範囲からはみ出さない限り、問題は生じない。 役に立つものはおおいに使えばよい。
ただし、客観的視点を、「真理」だとか、「真実」だとか、「ホントウ」だとか言い始めると 認識がコケただけにおさまらない。明らかに、別の物語がくっついてしまっている。
想像力を適切に使えば便利に知識を使える(=強さ、実効性)ということと、真実や真理という哲学用語とは まったく関係がない。
私たちは、天井の辺りに、空想上の目を置いて 空想の部屋の全体を見るときの 部屋全体の想像図に 『世界』という名前(言葉)を貼りつけた。もちろん、その仮想世界に含まれている自分にもラベル(名前)を貼りつけてある。それが、『私』という言葉である。
世界だけがイリュージョンなのではない。 私もまたイリュージョンなのだ。
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