部屋の中にいると、壁と天井にさえぎられて 外は見えないが、壁の向こう側を想像することが出来る。
この部屋(家屋)が、もっと大きな空間の中にあると 想像するだけでよい。
こうやって想像で生み出された 世界空間 という イメージがあり、その中にイメージの自分とイメージの他人がいる。
現実の他人と 現実の自分とはそれほど深いかかわりはない。
少なくとも、その人に会っていない時は、直接的な関わりはない。
しかし、とある他人が、イメージの世界空間に(イメージとして)取り込まれると、いきなり私と深く関わることになる。
イメージ世界空間の中の他人は 世界の構成要素であるから、その中にいる「イメージの自分=私」と 強く関わるのである。
日本人は、『ひとさま』の目にどう映るかを ものすごく気にする。
『ひと様』を喜ばせ、気分を害しないように 気持ちを読み、想像し、さまざまのシミュレーションを繰り返す。
「私」を見て 判断したり評価(褒めたり、貶したり)したりするのは、自分が作り出したイメージの空間に居る「イメージとしての他人」=ひとさま だけである。
断言してよいが、「現実の他人」は、こちら(自分)を見てなどいない。
「現実の自分」も相手を見てなどいない。
現実の自分に目をひきつけたければ相当に突飛なことをしでかさなくてはならず、そういう努力をしても 数秒間くらいが関の山である。
ある人 と 現に、会っている時、その人が 自分を見ていないのだとすれば、 その人はいったい、何をやっているのだろうか?
「自分が他人にどう見えるか」を考えている。それだけを やっているのだ。
それでいて、人伝えに聞いた話だけをもとに 会ったこともない人のイメージを作り上げて自分の世界空間に勝手に取り込み、そのイメージの他人を、やたら気に入ったり、恨んだり、怖がったりするのだから ややこしい。
「人さま」というのは、現実の他人のことではなく、一種の「神さま」であって、このややこしい神さまのタタリが怖くて 日本人は、ものすごいエネルギーを 日々、ご機嫌伺いに費やすのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿