2007年11月15日木曜日

両脇を見ること

五輪書   宮本武蔵


眼の付け様は大きに広く付るなり、
観見の二つあり、
観の目つよく、見の目よわく、
遠き所を近く見、近き所を遠く見ること兵法の専なり、
敵の太刀を知り、聊か敵の太刀を見ずと云事兵法の大事なり、
工夫あるべし、
此眼付小さき兵法にも大なる兵法にも同じ事なり、

目の玉動かずして両脇を見ること肝要なり、

け様のこと急がしき時俄にわきまへがたし、此書付を覚え常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処能々吟味有べきものなり



武蔵の言う、『観の目つけ』は、映像を観たり、文字を読むのには適していない。
本を脇に寄せたり、顔の角度を工夫すれば片目で読めなくはないが。
文字や映像は 頭に詰まって、風通しを悪くすることもままあるようだから、仕事でもないのなら、そこまで頑張って字を読むこともない。

文字を読む暇があったら、観の目付けのまま 部屋の中を眺めているか、その辺りをふらつく方が よほどいい脳トレーニングになる。

ただし 力みかえって目に力を入れて 両脇を見るのではなく、ふわっと 視野を緩める程度で充分だろう。

誰かと真剣を持って立ち会うわけでもないのだから。

もちろん この本を全部読む必要もない。

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チベットの神秘と魔術』の中で、アレクサンドラ・デビッド・ニール女史は、チベットのルン・ゴム・パ(人並み外れた能力を持つ霊的な歩行行者)について次のように述べている。


歩行者は話してはならないし、左右を見てはいけない。目はひとつの物を凝視し、決してこの集中を他の何物にも向けてはいけない。

このトランス状態に達したら、通歩行者の常の意識はその大部分が沈静化するが、進路にある障害物や、方向、目標地点への気づきを保たせるには十分活動している。

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ハカラウ  -古代ハワイ(フナ)の瞑想- 

目の高さより少し上の壁に定めた1点を凝視しながら、リラックスして 全ての注意をその点に向けるていると、 視界が広がり始め、視界の中心よりも周辺部分の方がで見やすくなって来る。

視界の中心よりも周辺視野により注意を払うようにし 出来る限りこの状態に留まる。 

上方に向けていた目線をまん中に戻して、この注意の状態を維持する。

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ひとはモノを見る時、あたかも 薄暗い闇 の中で 強いスポットライトを当てるような感じで 見ている。動物行動学(ユクスキュル)的な観点によると、その生物種にとって、「意味のあるものしか 見えていない」そうで、人間の場合 「言葉」によってさらにフィルターがかかっている。

心の中にあるモノ(記憶・イメージ)を 見るときも 全く同じように目を使う。
何か考えているとき、あるいは、何かを思い出すとき、夢を見ている時、目だまは動いている。
内側のもの(イメージ)であれ、外側のものであれ、見ている(スポットライトを当てている)モノが  まさに「意識」の内容そのものであり、私たちは、意識の光が当たっている小さな範囲が、「世界の全て」であるかのように感じ、そのように扱おうとする傾向があるようだ。

時間 という感覚もまた、 過去-現在-未来 という「空間イメージ」の上に組み立てられている。

自分は これまで(過去)は、こんな人であったし⇒今(現在)は こんな風だ⇒そしてこれからこんな人になりたい  という、『わたし』という物語 もまた、『時間イメージ』の中で成立する。

私の幸せ(欲望)と その裏返しである、私の不安・心配・恐怖 は、この『時間イメージ』の中でのみ成立する。

目玉が止まると、時間=世界=私 が、止まり 幸せも恐怖も 存在する足場 を失ってしまう。

いま、目玉がとまっているなら、そこは 時間の外であり、「わたし」という狭い世界から、はみ出している。

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