2007年11月29日木曜日

ひとさまのたたり

この部屋の、天井の辺りに空想上の目を置いて 部屋 を見るとき、見ているイメージは「部屋の想像図」である。

部屋の中にいると、壁と天井にさえぎられて 外は見えないが、壁の向こう側を想像することが出来る。

この部屋(家屋)が、もっと大きな空間の中にあると 想像するだけでよい。

こうやって想像で生み出された 世界空間 という イメージがあり、その中にイメージの自分とイメージの他人がいる。

現実の他人と 現実の自分とはそれほど深いかかわりはない。
少なくとも、その人に会っていない時は、直接的な関わりはない。

しかし、とある他人が、イメージの世界空間に(イメージとして)取り込まれると、いきなり私と深く関わることになる。

イメージ世界空間の中の他人は 世界の構成要素であるから、その中にいる「イメージの自分=私」と 強く関わるのである。

今、現在、会っているわけでもない』のに、誰かの言動や思考内容が 気になる ということになる。


日本人は、『ひとさま』の目にどう映るかを ものすごく気にする。

『ひと様』を喜ばせ、気分を害しないように 気持ちを読み、想像し、さまざまのシミュレーションを繰り返す。


「私」を見て 判断したり評価(褒めたり、貶したり)したりするのは、自分が作り出したイメージの空間に居る「イメージとしての他人」=ひとさま だけである。


断言してよいが、「現実の他人」は、こちら(自分)を見てなどいない。

「現実の自分」も相手を見てなどいない。

現実の自分に目をひきつけたければ相当に突飛なことをしでかさなくてはならず、そういう努力をしても 数秒間くらいが関の山である。



ある人 と 現に、会っている時、その人が 自分を見ていないのだとすれば、 その人はいったい、何をやっているのだろうか?


「自分が他人にどう見えるか」を考えている。それだけを やっているのだ。


それでいて、人伝えに聞いた話だけをもとに 会ったこともない人のイメージを作り上げて自分の世界空間に勝手に取り込み、そのイメージの他人を、やたら気に入ったり、恨んだり、怖がったりするのだから ややこしい。

「人さま」というのは、現実の他人のことではなく、一種の「神さま」であって、このややこしい神さまのタタリが怖くて 日本人は、ものすごいエネルギーを 日々、ご機嫌伺いに費やすのである。

2007年11月28日水曜日

活字断食

精神(アタマ)を すっきりさせたければ、アタマに浮かんでくるすべての言葉を 紙に書きだしてしまえばよい。ただ、書くだけのことで、テクニックと言うほどのものではない。

コトバを使う上での 「ねばならない」「こうあるべき」というルール、文章としての体裁を 全部無視し、テーマがジャンプしようが、聞き損じがあろうが、書き損じがあろうが、それが気になろうが、気になるまいが、ただ順々に 今浮かんでくる声をそのまま書いていくだけである。他人に邪魔される事のないまとまった時間を探し、一段落つく(何も出てこなくなる)まで 書けば申し分ない。

本当に自由に書きたければ 書いたものはその日のうちに破り捨てる というルールを設けておく。さらに、書いている手元を見つめない(ペン先や文字ではなく、紙の全体を眺めるような目付き)ようにして書くとさらによい。朝起きてすぐ、のような、まだ意識が少しぼーっとしている時は、本音が浮き出て来やすいだろう。


ポイントは「書く」にあるのではなく、「聞き取る」というところにある。



ジュリア・キャメロンというひとが、 モーニング・ページ という粋なネーミングで、ライティングをやる時間帯や書く文字の量などを具体的に示して、『技術』化してから、一般に知られるようになったのだが、フリー・ライティングそのものは、キャメロン氏の創案ではない。

むしろ、キャメロン氏の著作では 活字を読むのを一定期間断つ というのがセットになっているところが面白い。

活字が入ってくるのを断ち、 毎朝、どんなことでもいいから頭の中に湧いてくる言葉を紙に書いて出してしまう。

新聞や本を読まないからといっても、テレビのスイッチを入れ、DVDを借りてきて映画を観たりしていたのでは、断食しながらお菓子をつまんでいるような事になってしまう。


断っているのは、「ものがたり」という、思考パターン そのものであるからだ。

2007年11月27日火曜日

怒りの必要性

GABOR MATE という米国の医師が書いた WHEN THE BODY SAYS NO (邦訳タイトル:「身体がノーと言うとき」教文社)の 最終章に 
治癒のための7つのA という章がある。

  1. Acceptance
  2. Awareness
  3. Anger
  4. Autonomy
  5. Atacchment
  6. Asseertion
  7. Affirmation
このAnger の中で紹介されているアレン・カルビン(モントリオールのマッギル大学のハビブ・ダヴァンルー博士の手法を踏襲するトロントのセラピスト)が面白いことを言っている。

怒りの抑圧も爆発も、本当の怒りを感じることを恐れる気持ちがもたらす

これはかなり 面白い。 実際に、医師として このような観点からアプローチをして、臨床上の結果を出しているということだとすれば なおさら。


ガボールは、怒りを ネガティブな感情と捉えたり、それを治療すべきものだと言っているのではない
怒りは、それを真正面から100パーセントの純度で感じ取られる時のみ健全であり、それは 重要な認識とパワーをもたらすというのだ。


「本当の怒りを感じることは表面化しない生理的な体験だ。この体験は体内をめぐる力の高まりの一部であり、攻撃のために動員される力とは別だ。『この体験と同時に、あらゆる不安は完全に消滅する。』」





 「本当の怒りを体験するとき、劇的なことは何も起こらない。ただすべての筋肉の緊張がゆるむだけだ。あごの力が抜けて目は大きく間く。声帯から力が抜けて声の音程が低くなる。肩が下がり、全身の筋肉がほぐれるのを感じる」



『怒ること=怒りの表出』は、人に逆切れされて『怒られる恐怖』と 表裏一体だと言えるかもしれない。

すなわち 怒る=怒られる というセットが出来上がっていて 怒りが出てきた瞬間に 生まれる恐怖が怒りを抑圧する。 


怒りの抑圧 が 社会的な不利 を計算しての事であれ、幼少時に条件付けられたものであれ、「怒りを表出すること」が 他人との関係で『不快』をもたらすということだ。




カルビン自身の見解も紹介しておく

ポジティブな感情や愛情、ふれあいを求める相手に対し 攻撃的な表現をすることは、その関係を脅かす。
それは 恐怖、不安、罪悪感を生み出す。
自分の中に湧きあがる攻撃的な衝動を無意識に恐れる人は、防衛策として『抑圧』か『爆発』という形をとる。
爆発すなわち、怒りを行動化すること、つまり怒鳴ったり、金切り声をあげたり、殴りかかったりすることもまた、怒り(=恐怖や不安)を実感しないですませるためのものだと言う
。怒り爆発もまた 不安の抑圧の ひとつの形であると言えそうだ。

大人の行動様式を身につけた者は これを抑圧しきることだろうが、いずれにせよ さまざまな生理的ストレス反応をもたらす。



良好な関係の相手に対し 攻撃的な表現をすることは、その関係を維持出来ないかもしれない、という『推測』を生むのだ。
この『推測』というのは、未来という時間の幻想に基づいている。
『過去⇒現在⇒未来』という 「空間の中に横に並べた物体」の比喩イメージである『時間という物語』に 組み込まれる瞬間である。 

この「物語」のリアリティが、恐怖、不安、罪悪感を生み出す。


怒りを『感じないように』するための道具は やはり言葉(物語)である。
「そんなちっぽけな事で怒るなんて 一人前の人間として 格好悪い」とか、「相手は物事が分かっていない むしろ、可哀想な奴なんだから」とか、別の物語を作り出して怒りを納めようとする。

充分に納得のいく「怒りを押さえつける物語」がうまく作れないときは、関係が壊れる不安に目をつぶり、大声でどなったり、物を投げつけたりして怒りを爆発させる。

物語と物語が ぶつかり合い、一種の混乱(パニック)状態が起こっている。



物語(未来という物語)から 出て来なければならない。
本当に、実際に、
『いま、ここに、あるもの=この怒り』
に 焦点を当てる というだけのことだ。



『この体験と同時に、あらゆる不安は完全に消滅する。』

不安もまた 物語(幻想)が生み出したものである。
怒りという現実=感覚 に戻ってくるとき、不安を生み出す幻想はすでにない。

それがいかに不快であっても、
「今現在、感じている身体感覚」に戻ってくること。
これは 怒りに限ったことではないのかもしれない。



しかし、ガボールの言いたいことは、ここが本題ではない。

怒りの表明―境界を守るために一歩を踏み出す事は、自分自身を尊重することであり、 他者の境界を侵害してしまうのではないか というような心配こそは無用なのだ、と。

ひらく

「いまこの瞬間以外は全てイリュージョン」であるとしても、ではいったい、何をすればよいのだろう。


自己流のやり方で心理的な葛藤を解放し、短期間で重病を治癒させてしまった人(レスター・レビンソン)が居る。

感情をコントロールする努力を放棄し、感情に向かって自分を開くだけで、いいのだという。

まず、自分自身に目を向け、そこにあるものを感じることを自分に許す。

そして 自己観察を要請する問いを、連続的に自分自身に投げかけていく。

これを手放すことが出来るか?・・・
手放したいか?・・・・
いつ 手放すか?

このような問いが、意識を『いまのこの自分』の観察 に釘付けにしてしまうのは確かだ。


意識が 「いま、この瞬間」にいることで、イリュージュン(物語)は崩れるのだ。

物語に捕らえられて身動きできなくなっていた「感情」は、自由に動けるようになってどこかに逃げて行ってしまう。

今この瞬間にあることで、イリュージョンが消える という発見は、その都度に新鮮であり、何千回繰り返そうと そのたびに新鮮な呼吸のようなものだ。意識の呼吸・・・・

しかし、イリュージョンを取り除く「目的」で、「いまこの瞬間」を観察する となると、これは目的を持った「技術」ということになる。

実際、「治療という物語」の中で、「物語外し」を使う という面白い事になるのである。

突き詰めていけば、最終的には「治療という物語」自身をも崩壊させる事になるのかどうか。これはやってみなくてはわからない。

2007年11月26日月曜日

なぜ? の呪術

THE DIRTY HALF DOZEN  という変なタイトルの本がある。( 邦訳のタイトルはもっとヘンテコだが)

人間関係を生き延びるサバイバル技術を6つ(半ダース=HALF DOZEN) にまとめているのだが、DIRTYとはなんだろう。

シカゴブルースやブギウギ、ジャズの中にTHE DIRTY DOZENというタイトルのアルバムがいくつもある。

THE DIRTY DOZENは、母親を引合に出して卑猥な言葉で相手を罵倒するアメリカの言葉遊びらしいのだが、元は、12編(1ダース)の短詩形式で暗唱させる聖書の布教方法を子供達が茶化して流行らせたのが始まりだとも聞く。
12人(1ダース)の囚人たちによって作られた特殊部隊の活躍を描くThe Dirty Dozen』(特攻大作戦)というタイトルの映画もあるので なにげなく戦争のイメージを重ねているのかもしれない。


心理学は、支配者階級の人々にとっては社会統制の技術以外の何物でもないが、一般人の需要としては「臨床」がほとんどであり、病的な状態の研究が多い。
しかし、中にはこの本の著者(ウィリアム・ナーグラー/アン・アンドロフ)のように、「健康な人間関係」を研究している人もいる。


6つのDIRTYのひとつである「ウソ」の必要性を奨める章の中で 著者は、なぜ? と なにが? という 二つの問いについて 書いているのだが これが、おもしろい。

もちろん、状況や文脈にもよるのだろうが、対人関係の中での 『なぜ?』は、 そのまま 相手の存在の否定である というのだ。

本物の戦争にしたくなければ、なぜ?と言いたくなった時に、なにが?と 言い換えて言葉を組み立てる。『なんで(どうして)遅れたの?』 ではなく、『なにがあったの?』と。

なぜ?には 価値(私はドジだから)が反応するが、なにが?には 叙述(起こったこと)が反応する。価値判断は緊張を生み、叙述はリラックスをもたらす、と。



学問には 『なぜ?』がつきものである。
学問は、「全体としていまここにある世界」を、否定する。そうしなければ、始まらない。
世界を 言葉の構造に沿ってフォーマットし直し、知識の構造として、『自由に取り出せる』ように 組み立てなおすのだ。 こうやって 『実用性』という価値を作り出す。
科学の「なぜ?」は、厳密な検証を通して、実用に耐えるだけの物語に仕上げていくだけではなく、それが仮説(ものがたり)であることの自覚を持っている。

真剣に なぜそのようであるのか を問う時、思考ではなく観察が起こるのだが、ほとんどの『 なぜ?』は、不満の表明に過ぎない。この不満の原因(なぜ?)を自らに対して問うのは破壊的である。そこで生まれてくる物語は「あるがままの自分」の否定とならざるを得ないからだ。


自分自身に対して呟く『なぜ?』だけではなく、他人から受け取った『なぜ?』もまた、同じように自己否定が反応する。これは、砒素を仕込んだクッキーを気軽に口に入れているようなものである。


しかし、言葉の罠から抜け出した人にとっては、関係のない話だ。『人間の価値』という言葉に 意味を感じないから、他人が投げかける『なぜ?』に反応のしようもなく、自分の現状に対して『なぜ?』と 問いかけることもない。



2007年11月22日木曜日

感覚スケッチ

楽しくわかる操体法』 (医道の日本社)に付録として書かれている「感覚スケッチ」というのが、面白い。


著者に直接聞いたところよると、痛みや不快感は 体が何かを訴えているのだから、直接そのまま、聞いてみてはどうか、ということらしい。

感覚そのものに耳を傾けるだけでいい、という。

ほぼ同じ様なことを、心理学の分野でより掘り下げて研究しているようなので、今さら大声でいうことでもない、ということで付録扱いにしたようだが、フォーカシングやプロセスワークとは少しニュアンスが違う。


プロセスワークやフォーカシングは 体の感覚に耳を傾け 別の物語(体は何を言おうとしているのか?)に翻訳する。

これらは「治癒」あるいは「成長」という目的を持っている。

未来に目指す状態があり、そこに「向かう」こと自体が、時間イメージを含んでいるから、ワーク自体が 一種の物語である。

この本の、「感覚スケッチ」は、どうやら、治癒や成長を目指しているわけでもないらしい。

喋ってるんだから、聞いてみれば?というだけの事のようなのだ。

体との対話そのもの(プロセス)を大事にするのは同じだが、ワークというようなものではなく、むしろ、ゲームに近い。


治癒や成長を目掛けて、感覚に耳を傾けるのは、「治療」あるいは「瞑想」である。

目的を持って何かを「する」のは、なかなかめんどうなものだが、聴くのは簡単だ。

わざわざ聞こうとしなくても、耳は、勝手に聞いているし、わざわざ感じ取ろうとしなくても、体は勝手に感じとっている、と。


しかし、感じられて来るままでいようとしても、アタマは勝手に考え始め、起こりつつあることをコトバの世界で扱おうとする。

「何故」 あるいは 「どうして」 と無理矢理にコトバの「因果」ルールにはめ込もうとする。

「好き/嫌い」などの、「分類」ルールで処理しようとする。

あるいは、胃が痛いとか、関節が痛い、傷口が疼く、など、既に出来上がっている言葉(概念やイメージ)、にはめ込もうとする。


それでは、「全く聞いていない」と言う。


そこで、勝手に動き回ろうとするコトバを、別の回路に連れ込んで、捕まえてしまう。


同じく「質問―回答」ルールで捕まえるのだが、今度は、「なぜ?」と問わず、「どのように?」と問いかける。

するとアタマは、観察内容の翻訳(表現)で手一杯になってしまい、原因や結果という時間軸に沿って妄想を膨らませる暇がなくなる。

質問を「感覚の様子」に限定しているので、感覚から注意を逸らせるわけにも行かず、物語に逃げる事も出来ない。


だから、リズムが必要だ。 

  その感覚の範囲は?
  大きさは?
  長さは?
  幅は?
  深さは?
  厚みは?
  形は?
 色に喩えると何色?
 材質に喩えるとすれば、何?

と、矢継ぎ早に「問い」続けることが、ポイントなのである。

2007年11月18日日曜日

客観というファンタジー

タイトルを思い出せないのだが、竹田青嗣氏(哲学者)の著作に面白い話が載っている。


幼い子供が かくれんぼ で遊んでいて、『頭かくして尻隠さず』という状態で隠れているとき 自分の視界には相手は見えないので、相手からも自分が見えないと 思っているのではないか。というのだ。

「自分の視界=世界」の中から相手が消え去った以上、相手は存在しなくなるはずで、存在しない相手に見つけられることはないはずだ。

だが、実際には、あっという間に、見つかってしまう。
この見つかってしまうという現実が、彼に「自分の認識は 不完全な思い込み に過ぎない」、と思い知らせることになる。


徐々に子供は、 「 相手と自分の位置関係 」を、どう捉えればいいのかに気づく。
天井の辺りに、空想上の目を置いて 空想の部屋の全体を見るのだ。

検証を繰り返して、実際に、相手から見つからなくなれば、この「空想」は、「正しさ」を証明されたことになる。そして、この「想像図」が、自分の目に実際に映る「主観」よりも 信用に値するものとなって来る。

この想像上の視線を 「客観的視線」 と呼び、想像図 の事を、「仮説」と呼ぶ。

目をつぶれば 世界は目の前から消滅するが 『見えていなくても、実際には 同じ世界が そこに存在している はずである』という確信(信憑)が形成される。

いったん確信に至った仮説は、『思い込み』となり、そもそもが想像上のものであった、という事を忘れる。


『 自分の目には このように映っている 「から」 世界の存在を確信出来る 』はずであったものが、『 世界が存在している「から」自分の目に 映っている』という確信に変質する。



因果の転倒が起こるのである。
「科学」は「確固たる客観世界が存在する」という信念を大前提として、世界の物語を組み立てようとする。

しかし、認識がコケていようが、ひっくり返っていようが、実効性のある(かくれんぼに成功する)範囲からはみ出さない限り、問題は生じない。 役に立つものはおおいに使えばよい。

ただし、客観的視点を、「真理」だとか、「真実」だとか、「ホントウ」だとか言い始めると 認識がコケただけにおさまらない。明らかに、別の物語がくっついてしまっている。

想像力を適切に使えば便利に知識を使える(=強さ、実効性)ということと、真実や真理という哲学用語とは まったく関係がない。




私たちは、天井の辺りに、空想上の目を置いて 空想の部屋の全体を見るときの 部屋全体の想像図に 『世界』という名前(言葉)を貼りつけた。もちろん、その仮想世界に含まれている自分にもラベル(名前)を貼りつけてある。それが、『』という言葉である。

世界だけがイリュージョンなのではない。 私もまたイリュージョンなのだ。





2007年11月15日木曜日

イリュージョンなしに世界は見えない

これはヒンドゥー教や仏教の話ではない。ドイツの生物学者 ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという人の 『生物から見た世界』で説かれる基本的な観点である。

世界はイリュージョンである という肯定的表現よりも、翻訳者である日高敏隆氏の、「イリュージョンなしに世界は見えない」という否定的表現の方が やはり、しっくりくる。

ユスクキュルの観察では、どの生物であれ、その生物にとって意味のあるものしか見えないのだという。
生物の身体の構造と欲求に限定された、無数の『世界の見え方』 だけがある。

人間の見ている世界もまた、人間という生物種(身体構造)だけのものである。
ただ、面白いのは、人間の「欲望」は、生物としての「身体的欲求」とは ズレているという点だ。

岸田秀氏のように、この部分を強調して論を展開すると それはそれなりの 首尾一貫したおもしろい物語が語れる。

人は、たいていの場合、『なんだろう?』と、暗黙のうちに問いを持って モノを見る。
それが、『なにである(=意味)か』 を 特定しようとしている。

何であるか は、状況によって変わる。

短距離競争を「しよう」と言うとき、これから走る地面に転がっている、石ころが目に飛び込んで来る。
山でキャンプをしていて、変形した器具を叩いて修理する必要に迫られているのに金槌がない、という時、辺りを見回すと 石が転がっているのが目に飛び込んで来る。

同じ 石ころ でも、何であるか=意味 が変化する。

これから走ろうかという時の、地面に転がっている石ころは邪魔な危険物であり、キャンプの時の石ころは、修理に使える道具だ。
壮大な風景を眺め、感動に浸っている時、足元の石ころは「意味」がない。それは、視界の隅に映ってはいても、まるで「見え」てはいない。

「見えるもの」とは、このように、「求め」に応じて、現われて来たものだ。

なんであるか(意味)と見るとき、求め欲する気分が先行している、あるいは、見る前に、「求め」を投げ掛けている。求め、欲するとき、目はサーチライトのように 注意を収束させながら くるくると探索する。

キャンプで、壊れた器具を叩いて修理したい時に、水辺で水面に浮いているカエル は「意味」がないので、目に入ってこない。しかし、遭難して何日も食べて おらずお腹がぺこぺこで命にかかわるときには、カエルには 意味(たべものだ!) と 価値(石ころより重要だ!) が 生じる。

意味は カエルや石ころ、それ 自体 には「ない」。


これはコトバの場合も同じで、コトバ「そのもの」には、ほとんど意味がない。

金槌の代わりになるようなものを探している人が、「カエルはどうか?」という コトバをかけられるとする。彼にはこのコトバの「意味」が全くわからないはずだ。しかし、餓死しかかっている人には、すぐに「意味」が分かるだろう。

人間にとって 『 世界 』とは 目に見え、耳に聞こえる範囲の事ではなく、見えていないところ、そして時間的な広がりを含めて これまでに得たコトバや 映像の全てを組み込んだ「イメージ」であり、その 脳裏に組み立てられた『 世界 』の中での「 欲望 」を持ってしまうからだ。


壮大な風景に感激して写真におさめたはずなのに、出来た写真では「そのように」は映っていなかった、という事はよくある事だ。

セザンヌの描くセント・ヴィクトワール山は、他の山々から抜きん出た存在感(大きさ、高さ)を示しているが、同じ視点から撮られた写真ではそれほど大きくはない。しかし、セザンヌの目はそのように「見えた」のだ。

人間にとっての世界は観念(幻想)だから、この世界の中で生じる欲望もまた、幻想であり、それを投射しながら、「見よう」としている。

幻想としての欲求、すなわち夢を通して「何であるか=意味」を見ている。

人が外や心の中に見るものは その人の欲望(関心)を映し出していると言ってよい。

心の中であるか、外であるかを問わず、「見えているもの」とは、「欲望のカタチ」であり、自分自身が映し出された姿でもあるのだ。

人間以外の動物は、「壮大な大自然の景観」を見たがったりはしない。


透視能力者が、カラダの中を見たり、遠隔視能力を持つ人が遠くのものを見たり、霊視者が死んだ人の姿を見たり、幽体離脱してあの世を見たりする場合でも、例外ではない。 モノもコトバも、欲望を満たす可能性、あるいは欲望を障害する可能性として、たち現われ=見え て来くる。


この時、人間的欲望(幻想)が投影されているのは、視野の中心部のようだ。

テレビを見ている時、意味が映し出される視野の中心部には「映像」だけが見えているが、視野の周辺部に映る 画面枠やテレビの本体、周囲の壁やドアなどの風景は、視野に映ってはいても、まったく、見ていない。
これは、本を読んだり、携帯電話を操作しているときも同じで、文字を追っている時は、意味だけを追い、携帯電話の色や形、本を持つ自分の手や指は見ていない

焦点が解けて、「ただ単に眺めている」とき、世界は 「意味の可能性を潜めた風景」として目に映って来るだけで それが何であるかという「意味」を持っていない。

この意味が生じる前の風景は、色鮮やかで、それでいて なぜか、すっきりとして穏やかで、軽やかである。

江戸時代の僧 盤珪(ばんけい)が 『不生 と呼んだのは、おそらくは、この 意味が生じる前の風景のことだ。



両脇を見ること

五輪書   宮本武蔵


眼の付け様は大きに広く付るなり、
観見の二つあり、
観の目つよく、見の目よわく、
遠き所を近く見、近き所を遠く見ること兵法の専なり、
敵の太刀を知り、聊か敵の太刀を見ずと云事兵法の大事なり、
工夫あるべし、
此眼付小さき兵法にも大なる兵法にも同じ事なり、

目の玉動かずして両脇を見ること肝要なり、

け様のこと急がしき時俄にわきまへがたし、此書付を覚え常住此眼付になりて、何事にも眼付のかはらざる処能々吟味有べきものなり



武蔵の言う、『観の目つけ』は、映像を観たり、文字を読むのには適していない。
本を脇に寄せたり、顔の角度を工夫すれば片目で読めなくはないが。
文字や映像は 頭に詰まって、風通しを悪くすることもままあるようだから、仕事でもないのなら、そこまで頑張って字を読むこともない。

文字を読む暇があったら、観の目付けのまま 部屋の中を眺めているか、その辺りをふらつく方が よほどいい脳トレーニングになる。

ただし 力みかえって目に力を入れて 両脇を見るのではなく、ふわっと 視野を緩める程度で充分だろう。

誰かと真剣を持って立ち会うわけでもないのだから。

もちろん この本を全部読む必要もない。

----------------------------------------------------

チベットの神秘と魔術』の中で、アレクサンドラ・デビッド・ニール女史は、チベットのルン・ゴム・パ(人並み外れた能力を持つ霊的な歩行行者)について次のように述べている。


歩行者は話してはならないし、左右を見てはいけない。目はひとつの物を凝視し、決してこの集中を他の何物にも向けてはいけない。

このトランス状態に達したら、通歩行者の常の意識はその大部分が沈静化するが、進路にある障害物や、方向、目標地点への気づきを保たせるには十分活動している。

----------------------------------------------------

ハカラウ  -古代ハワイ(フナ)の瞑想- 

目の高さより少し上の壁に定めた1点を凝視しながら、リラックスして 全ての注意をその点に向けるていると、 視界が広がり始め、視界の中心よりも周辺部分の方がで見やすくなって来る。

視界の中心よりも周辺視野により注意を払うようにし 出来る限りこの状態に留まる。 

上方に向けていた目線をまん中に戻して、この注意の状態を維持する。

----------------------------------------------------

ひとはモノを見る時、あたかも 薄暗い闇 の中で 強いスポットライトを当てるような感じで 見ている。動物行動学(ユクスキュル)的な観点によると、その生物種にとって、「意味のあるものしか 見えていない」そうで、人間の場合 「言葉」によってさらにフィルターがかかっている。

心の中にあるモノ(記憶・イメージ)を 見るときも 全く同じように目を使う。
何か考えているとき、あるいは、何かを思い出すとき、夢を見ている時、目だまは動いている。
内側のもの(イメージ)であれ、外側のものであれ、見ている(スポットライトを当てている)モノが  まさに「意識」の内容そのものであり、私たちは、意識の光が当たっている小さな範囲が、「世界の全て」であるかのように感じ、そのように扱おうとする傾向があるようだ。

時間 という感覚もまた、 過去-現在-未来 という「空間イメージ」の上に組み立てられている。

自分は これまで(過去)は、こんな人であったし⇒今(現在)は こんな風だ⇒そしてこれからこんな人になりたい  という、『わたし』という物語 もまた、『時間イメージ』の中で成立する。

私の幸せ(欲望)と その裏返しである、私の不安・心配・恐怖 は、この『時間イメージ』の中でのみ成立する。

目玉が止まると、時間=世界=私 が、止まり 幸せも恐怖も 存在する足場 を失ってしまう。

いま、目玉がとまっているなら、そこは 時間の外であり、「わたし」という狭い世界から、はみ出している。

2007年11月14日水曜日

「自分のことば」というウソ

「99.9パーセントは仮説」 竹内薫 

99.9パーセントは仮説という本がある。ものすごくおもしろいのだが、このタイトルはなにやら奇妙に聞こえる。言葉で組み立てた『説』そのものが仮構のものだからだ。

考えるとき、人は コトバを使う。
コトバは他人の納得を取り付けるためのルールだ。

このルールの実体は、「世間の慣習」であり、私たちは、こういう「ルール・ブック」をコピー(学習)していつも持ち歩いている。

ルールというものは、自分に属しているものではない。
よく『自分の言葉で語れ』というが、実は、自分のコトバなどというものはない


ルール(コトバ)は、自分(わたし)に属しているのではなく、「わたし」というコトバの方が、それ(ルール=世間)に属している。


神の名を呼んではならないという宗教がある。名(コトバとして)を呼ぶとは、人のルールの中に神を堕ち込ませる事であり、神の超越性を損なうことになるからだろう。中近東起源の一神教の神の名はエホバとかヤハウェだと思っている人は多いと思うが、これらはおそらくはハンドルネームであり、本当の名を手に入れることの出来た人間は唯一モーゼだけのはずである。砂漠の神はなぜか、人に使役されるのを嫌がる。

日本の神々は、名前を知られるがゆえに、コトバのルールに取り込まれ、言霊に支配され、人の願いをきかされてしまったりする。

「自分、わたし」というコトバがなければ、「わたし」は存在しない。あるのはただひたすらに流れる感覚と、それらが映し出される意識である。


コトバで考えるとき、その「内容」は、ルールに制限され、「他人に承認される」「他人をコントロールする」というレールの上を滑って行く。その意味では、コトバに自由はない。

「コトバで考えている」のではなく、実際は、コトバの論理に 考え「させられ」ている。

コトバで考えるとは、「仮想の他人」を納得させるための、シミュレーションに他ならず、考え始めた途端、心の中に『人々』が呼び出され、その人々を納得させるための努力が始まる。

コトバが考えているときは、意図してそれを止めることは出来ない。意図(止めよう)もまた、「考え」であり、火に油を注いでいるのと同じである。


コトバの世界での肯定は 他のものの否定に支えられている。名前をつけるとは、特定することであり、それ以外のものを排除=否定することだ。

。混沌とした無秩序な宇宙にコトバ=否定の網をかけてバラバラにすることで、はじめて人は「世界」を「レゴ(積み木)」のように好きなように組み立てることが可能になる。

「敵=あいつら」を特定=否定することで、「味方=われわれ」という集団を括り出していくという政治的な性格は、政治家たちが言葉を使うからそういう性質を持つようになったわけではなく、言葉そのものが本来的に持っている性格なのだ。

「同じ言語を使う」ということは、仲間を確かめる「合言葉」に他ならない。

こうやって、われわれ=味方の集団にとっての「世界」と言う「物語」を組み立て、維持していく。

ものがたり(ストーリー)こそは、「世界」や「歴史」という意味を生み出すための呪術の式(型)なのだ。


そして、この「物語」という架空の世界イメージを共有する事が、「コトバが通じる」ということであり、集団を維持し、内部での葛藤や闘争を調整し、共に生活していく事を可能にする土台となる。

別の物語(神話・歴史・価値観)を持つ集団は、また違う「世界」を持っている。
「厳密な論理」というのは、違う世界イメージや価値観を持つ人々(集団)と、自分達が持つ価値観とをどうしても摺り合わせる必要が生じた時に使われる、グローバル・ルールととらえればよい。

しかしながら、言葉の根底に「否定」があるかぎり、言葉によるコミュニケーションを徹底的に突き詰めると、相手か自分自身の否定に行き着くはずだ。



事実を見たり聞いたり、感じたりして、それをコトバで表現することと、考える事とは、まったく異質の行為である。
表現として、「コトバ」を、「今感じている事実」に貼りつけて使う限りは、問題は起きてこない。
しかし、他人に表現する必要のない場合は 「考え」や「コトバ」は不要であり、有害であるとさえ言えるかもしれない。
ここで言う「有害性」とは、コトバ本来の機能である呪術(モノガタリ)性が感覚に「意味」をくっつけてしまうことを 指している。

ミゾオチに感覚を感じ、「痛い」「痛み」と言うとき、それは単なる「表現」であり、混乱は生じない。しかしその時、 「『胃が』痛い」 と呟くなら 明らかにその人は 自分に対して呪術を仕掛けていて、すでに「 妄想 」の中に居る。
「現実」である 痛み に 「 意味」をくっつけ、観念に変化させてしまうとき、現実への対応はズレて来る。


「今感じている事実」と「コトバ」とは別のものなのだ。

現実を処理するのに「コトバ」を使うと、言葉のカタチでもある「因果構造=時間の物語」の中で扱かわざるを得ず、あれこれと原因を考え始めたり、自分の行く末を案じ始め、あっという間に妄想の中に引きずり込まれ、終わりのないゲームの世界に閉じ込められてしまう。

また、「考える=コトバを操作する」事は、調停、交渉、協調、闘争という、本来、社会的な関係の中で使う道具を、個人の内側(心の中)で使っているわけだが、これは、戦い(狩猟)の道具である「弓」や「矢」を、家の中で使っているようなものだ。
「ことば」を使うのに最も適している状況は他人に対して、NO を 表明する時なのかもしれない。

コトバを使って考える 限り、その内容がなんであれ、それは 「仮説」である。

そして仮説というものは、どれほどそれらしくとも、タトエバナシであり、オトギバナシの域を出る事は不可能なのである。

ヴァーチャルな問題(目に見えない問題)を扱う際は、ヴァーチャルな道具(仮説)を使うしかないが、その際、注意を払わなければならないのは、ヴァーチャル(仮想)と、リアル(現実)の混同である。

それら(仮説と現実)を混同した途端、言葉の呪術にかかってしまい、幻想世界に巻き込まれる。

社会生活を送る必要上、言葉のやり取りが必須であるとするなら、同じ土俵(幻想)にのらなくてはならない。これは インターネット上でのやり取りに同じ文字コードを使うという約束事と同じことである。

コミュニケーションの必要に応じて、自覚的に幻想(言葉)世界に飛び込み、必要のない時は 自由にひょいと出てくることが出来れば言うことはない。

だが、麻薬中毒にも似て、これがなかなか抜け出すことが出来ない。

2007年11月11日日曜日

なぜそれを重要だと感じているのか?

アメリカで『ザ・シークレット』が大流行しているのと同様、ロシア・東欧圏では願望実現の秘密を明かした『リアリティ・トランサーフィン』がベストセラーになっている。

著者はロシアの 元物理学者ヴァジム・ゼランドで、天啓に導かれて得られた知見を、やはり現代の神話である『科学』のコトバを用いて展開する。

類書と違うところは、妄信的にポジティブイメージやポジティブな言霊を使うのではなく、ネガティブな面を直視しようとする。

彼の宇宙モデルは多次元構造論(パラレルワールド)で、世界は「事象の鋳型が無限に詰まった情報フィールド」であり、ある部分に意識(エネルギー)が当たる事で、現象化=物質化するという。

すなわち、リアリティ(現実)の現れ方には、無限の可能性が潜在していて、一旦、出発点が選ばれると、そこから因果関係のドミノが反応し始め、次々と物事が現実化していくということらしい。

誰もが、レストランでメニューを指さして注文する料理を選ぶように、気軽に「運命ライン」を選び取っており、しかも、外部からの強い影響を受けて、欲しくもない料理(運命)を、選び取らされていると言う。

ゼランドのモデルによると、同じようなことを考えている人々の放射する思考エネルギーは共鳴しあって、 独立した振動体=エネルギー情報体=振り子 を形成している。「振り子」は、自らの意志を持つ生き物のように動き、他の人間達の思考にゆさ振りをかけて感情を撹乱し、そこからエネルギーを吸い上げる。 

この辺りは 実におもしろい。 

蟻や蜂、あるいは、粘菌などの生物のグループが、あたかもグループとしての独立した精神と利害を持ち、個を拘束しているとしか見えない事実は、これまであらゆる合理的な説明を拒否してきた

ゼランドの説明が合理的なのかどうかは別にして、粘菌のコロニーから官僚組織 にいたる、 『グループ』というものの持つ独特の性格を 一括して説明しようとする観点そのものがおもしろい。

このグループ精神(振り子)の影響を回避するには、特定の思考に重要性を与えないようにするしかないと言う。 

また、思考が、何かに大きな意義を与えて「重要性」を高めると、「振り子」との親和性が高まるだけではなく、エネルギー場の不平衡(アンバランス)=過剰ポテンシャル が発生する。と同時に、エネルギー場には、このアンバランスを解消しようとする復元力が発生する。

すなわち、過剰ポテンシャルを発生させる人は、宇宙(エネルギー場)を敵に回すことになる。

そして、このバランス復元力(平衡力)を相手に闘う時に生じる、激しい感情の動き。それこそは 彼ら(振り子)にとってのご馳走に他ならず、それゆえに、「意義」や「願望」などの幻想を人間に押しつけてる。

これら「振り子」は、「空っぽ」の人間に対しては、影響を与えたり、エネルギーを吸い取ったりする事が出来ないらしい。

空っぽ とは ネガティブ思考の極みのことである。

2007年11月8日木曜日

ポジティブ思考

positive(ポジティブ)という言葉は、 もともとは ラテン語のponere(置く)から出てきた言葉で、位置が確定している安定感を表現している言葉であるようだ。

ポーズとか、ポストとか、ポジションという辺りは この言葉の 親戚らしい。

転じて、積極的な、確実な、とか、明確なとか、さまざまなイメージの展開があるのだが、心の様子を表すときには、おそらくは「確信に満ちたひとの心のありよう」であり、自信もないのに 無理やりに自分を動かすために強がることではないだろう。

○○の法則 とか、ポジティブ思考とか、 欲望が達成された姿を あたかも 既にに成った ように 言葉で宣言するだけで、そのように現実が動き出す という考え方がある。

欧米では、 古くは『ニュー・ソート』、『クリスチャン・サイエンス』 最近では『サイコ・サイバネティクス』とか、『ナポレオンヒル・プログラム』とか、日本でも 『阿頼耶識』とか『ありがとうの法則』とか、いろいろあるのだが、ここのところ、科学理論を取り込んだ『ザ・シークレット』というDVDが米国で大流行しているらしい。


日本では より簡単に という方向で『鏡の法則』『魔法の言葉』『口癖理論』 などの著作が受け入れられつつあるようだ。

そのようなことが実際に力を持っているのかどうか という事は ここでは問わない。



これらは 秘されていた古代神秘主義思想が 世俗に漏れ出てきたもののように見える。

早い話が、日本では今だに、強い力を保っていると思われる、古代信仰である『言霊』のことである。

日本の和歌もそうであろうが、 「歌」とは 元々は、神を脅しつけていうことを聞かせるための呪術であり、密教として伝えられてきたものである。


力があるからこそ危険であり、危険であるがゆえに「秘密」にすべきであったはずのものを、堂々と『ザ・シークレット』と銘打って公開し、うまく金儲けをしている 一部の著者たちを見ていると、古代遺跡の盗掘者が 財宝(その財宝が本物なのかどうか、これだけは実際に試して見なければわからないのだが)を売りさばいて大もうけしている図が 脳裏に浮かんでしまう。


軍隊を自衛隊と呼び替えたり、借金をローンとかキャッシングとか別の呼び名に言い換えて、あたかも危なくないものであるようなイメージにすり替えてしまう手法と同じで、このこと自体が 言霊の呪法である。


ポジティブ思考 もまた、言葉である限り(いかに有用であろうと)刃物である。

言葉の持つ(事実を切り取る)力を 見たくない事実から目を背けるような方向で利用するならば それは 自分で自分に『のろい』をかけているに等しい。

素人が生兵法なりに、望む状態を得られたとしても 「望み」そのものが、全体の見えていない状態から生まれ出て来たものである以上、自分自身も言葉の刃の害を受ける可能性はあるのだ。

2007年11月7日水曜日

いまこの瞬間以外はすべてファンタジーである

なぜ<ことば>はウソをつくのか (新野哲也 PHP新書)  これはタイトルの面白さに騙されて買った本である。

この中で爽快なことばを見つけた。

いまこの瞬間以外はすべてファンタジーである


本としては(かなり)読みにくかったが、ところどころに痛快なことばがある。

『反省とは自己否定である』 

というのも これまた見事な言い方だ。


反省は 人々から生きる気力を根こそぎ奪い取る
反省は、自己関与しながら絶望の中へ沈殿する。




反省している自己は『今この瞬間』に居るのではなく、過去に居る。
過去の風景を見ている『私』は、 過去の自分の想起 以外の何かではない。

反省=自己否定している自己 は、やはり ファンタジーである。

『自己否定をしている自己』を否定するところまで行けば、絶望には至らない。

否定しなければならない という事ではなく、ただ、『今この瞬間』に戻れば、おのずから、その白々しさが露呈する。

コトバから抜け出した場所に居ることは 単純に 気持ちがいい。





似たような観点から、「Be here now」 という言い方がある。

「今ここに居なさい」という、そうしなければならない、そうすべきである、という強制力と、そうしておれば何かいいことが起こるとか、すばらしい境地に達することが出来るのではないか、というような 夢(幻想)の引き金を引きやすい。


今この瞬間以外はすべてファンタジー という、否定表現の方が 幻想を生み出さずにすむような気がする。


ポジティブ思考 は 中途半端なネガティブ思考と同じくらい、人を騙すのがうまい。

言い換えれば 反省とは 中途半端なネガティブ思考である。

これは、ポジティブ思考と同じくらい危ない。


ネガティブ思考を徹底すれば、「反省する者」が否定され、反省に使っている言葉すなわち 思考そのもの が否定され、否定されて消え去った絶望という思考があった場所=空っぽの空間 だけが 残る。

不思議なことに 「空っぽ」は なんとなく わけもなく ポジティブである。




第四章

ことばによる認識は、常に「A=B」ではなく「A≠B」 によって行われる。
だが、ことばの特質は異化や否定型である。
したがって意識やことばでとらえると、世界や他者は、異物となって現れる。
嫌いな理由は言葉で言えるが、好きな理由は言葉で言うことがむずかしい。



欲しいところだけを切り取るナイフのような道具を使って、誰かをを大切にしたり、可愛がったりする事は、出来ない事はないだろうけれど、物凄い注意力がいる。


それだから、注意力を使わない「ポジティブ思考」なるものには、ウソ臭さがつきまとうのかもしれない。

否定の為に 否定の道具(ことば)を使う分には、混乱はない。



言葉を使って、「じぶん」を認識すると、やはりそれは 異物として現れる。

コトバによる自己認識は即、自己否定なのだ。

だのに、語っているコトバそのものは否定されない。

中途半端な自己否定。



ことば の ウソが見えると その瞬間から 世界は爽快になる。

身体に 風が通る。

ことばに出来るのは それを表現することだけであり、
ことばを使って それを引き起こすことは出来ない。