2007年11月29日木曜日

ひとさまのたたり

この部屋の、天井の辺りに空想上の目を置いて 部屋 を見るとき、見ているイメージは「部屋の想像図」である。

部屋の中にいると、壁と天井にさえぎられて 外は見えないが、壁の向こう側を想像することが出来る。

この部屋(家屋)が、もっと大きな空間の中にあると 想像するだけでよい。

こうやって想像で生み出された 世界空間 という イメージがあり、その中にイメージの自分とイメージの他人がいる。

現実の他人と 現実の自分とはそれほど深いかかわりはない。
少なくとも、その人に会っていない時は、直接的な関わりはない。

しかし、とある他人が、イメージの世界空間に(イメージとして)取り込まれると、いきなり私と深く関わることになる。

イメージ世界空間の中の他人は 世界の構成要素であるから、その中にいる「イメージの自分=私」と 強く関わるのである。

今、現在、会っているわけでもない』のに、誰かの言動や思考内容が 気になる ということになる。


日本人は、『ひとさま』の目にどう映るかを ものすごく気にする。

『ひと様』を喜ばせ、気分を害しないように 気持ちを読み、想像し、さまざまのシミュレーションを繰り返す。


「私」を見て 判断したり評価(褒めたり、貶したり)したりするのは、自分が作り出したイメージの空間に居る「イメージとしての他人」=ひとさま だけである。


断言してよいが、「現実の他人」は、こちら(自分)を見てなどいない。

「現実の自分」も相手を見てなどいない。

現実の自分に目をひきつけたければ相当に突飛なことをしでかさなくてはならず、そういう努力をしても 数秒間くらいが関の山である。



ある人 と 現に、会っている時、その人が 自分を見ていないのだとすれば、 その人はいったい、何をやっているのだろうか?


「自分が他人にどう見えるか」を考えている。それだけを やっているのだ。


それでいて、人伝えに聞いた話だけをもとに 会ったこともない人のイメージを作り上げて自分の世界空間に勝手に取り込み、そのイメージの他人を、やたら気に入ったり、恨んだり、怖がったりするのだから ややこしい。

「人さま」というのは、現実の他人のことではなく、一種の「神さま」であって、このややこしい神さまのタタリが怖くて 日本人は、ものすごいエネルギーを 日々、ご機嫌伺いに費やすのである。

2007年11月28日水曜日

活字断食

精神(アタマ)を すっきりさせたければ、アタマに浮かんでくるすべての言葉を 紙に書きだしてしまえばよい。ただ、書くだけのことで、テクニックと言うほどのものではない。

コトバを使う上での 「ねばならない」「こうあるべき」というルール、文章としての体裁を 全部無視し、テーマがジャンプしようが、聞き損じがあろうが、書き損じがあろうが、それが気になろうが、気になるまいが、ただ順々に 今浮かんでくる声をそのまま書いていくだけである。他人に邪魔される事のないまとまった時間を探し、一段落つく(何も出てこなくなる)まで 書けば申し分ない。

本当に自由に書きたければ 書いたものはその日のうちに破り捨てる というルールを設けておく。さらに、書いている手元を見つめない(ペン先や文字ではなく、紙の全体を眺めるような目付き)ようにして書くとさらによい。朝起きてすぐ、のような、まだ意識が少しぼーっとしている時は、本音が浮き出て来やすいだろう。


ポイントは「書く」にあるのではなく、「聞き取る」というところにある。



ジュリア・キャメロンというひとが、 モーニング・ページ という粋なネーミングで、ライティングをやる時間帯や書く文字の量などを具体的に示して、『技術』化してから、一般に知られるようになったのだが、フリー・ライティングそのものは、キャメロン氏の創案ではない。

むしろ、キャメロン氏の著作では 活字を読むのを一定期間断つ というのがセットになっているところが面白い。

活字が入ってくるのを断ち、 毎朝、どんなことでもいいから頭の中に湧いてくる言葉を紙に書いて出してしまう。

新聞や本を読まないからといっても、テレビのスイッチを入れ、DVDを借りてきて映画を観たりしていたのでは、断食しながらお菓子をつまんでいるような事になってしまう。


断っているのは、「ものがたり」という、思考パターン そのものであるからだ。

2007年11月27日火曜日

怒りの必要性

GABOR MATE という米国の医師が書いた WHEN THE BODY SAYS NO (邦訳タイトル:「身体がノーと言うとき」教文社)の 最終章に 
治癒のための7つのA という章がある。

  1. Acceptance
  2. Awareness
  3. Anger
  4. Autonomy
  5. Atacchment
  6. Asseertion
  7. Affirmation
このAnger の中で紹介されているアレン・カルビン(モントリオールのマッギル大学のハビブ・ダヴァンルー博士の手法を踏襲するトロントのセラピスト)が面白いことを言っている。

怒りの抑圧も爆発も、本当の怒りを感じることを恐れる気持ちがもたらす

これはかなり 面白い。 実際に、医師として このような観点からアプローチをして、臨床上の結果を出しているということだとすれば なおさら。


ガボールは、怒りを ネガティブな感情と捉えたり、それを治療すべきものだと言っているのではない
怒りは、それを真正面から100パーセントの純度で感じ取られる時のみ健全であり、それは 重要な認識とパワーをもたらすというのだ。


「本当の怒りを感じることは表面化しない生理的な体験だ。この体験は体内をめぐる力の高まりの一部であり、攻撃のために動員される力とは別だ。『この体験と同時に、あらゆる不安は完全に消滅する。』」





 「本当の怒りを体験するとき、劇的なことは何も起こらない。ただすべての筋肉の緊張がゆるむだけだ。あごの力が抜けて目は大きく間く。声帯から力が抜けて声の音程が低くなる。肩が下がり、全身の筋肉がほぐれるのを感じる」



『怒ること=怒りの表出』は、人に逆切れされて『怒られる恐怖』と 表裏一体だと言えるかもしれない。

すなわち 怒る=怒られる というセットが出来上がっていて 怒りが出てきた瞬間に 生まれる恐怖が怒りを抑圧する。 


怒りの抑圧 が 社会的な不利 を計算しての事であれ、幼少時に条件付けられたものであれ、「怒りを表出すること」が 他人との関係で『不快』をもたらすということだ。




カルビン自身の見解も紹介しておく

ポジティブな感情や愛情、ふれあいを求める相手に対し 攻撃的な表現をすることは、その関係を脅かす。
それは 恐怖、不安、罪悪感を生み出す。
自分の中に湧きあがる攻撃的な衝動を無意識に恐れる人は、防衛策として『抑圧』か『爆発』という形をとる。
爆発すなわち、怒りを行動化すること、つまり怒鳴ったり、金切り声をあげたり、殴りかかったりすることもまた、怒り(=恐怖や不安)を実感しないですませるためのものだと言う
。怒り爆発もまた 不安の抑圧の ひとつの形であると言えそうだ。

大人の行動様式を身につけた者は これを抑圧しきることだろうが、いずれにせよ さまざまな生理的ストレス反応をもたらす。



良好な関係の相手に対し 攻撃的な表現をすることは、その関係を維持出来ないかもしれない、という『推測』を生むのだ。
この『推測』というのは、未来という時間の幻想に基づいている。
『過去⇒現在⇒未来』という 「空間の中に横に並べた物体」の比喩イメージである『時間という物語』に 組み込まれる瞬間である。 

この「物語」のリアリティが、恐怖、不安、罪悪感を生み出す。


怒りを『感じないように』するための道具は やはり言葉(物語)である。
「そんなちっぽけな事で怒るなんて 一人前の人間として 格好悪い」とか、「相手は物事が分かっていない むしろ、可哀想な奴なんだから」とか、別の物語を作り出して怒りを納めようとする。

充分に納得のいく「怒りを押さえつける物語」がうまく作れないときは、関係が壊れる不安に目をつぶり、大声でどなったり、物を投げつけたりして怒りを爆発させる。

物語と物語が ぶつかり合い、一種の混乱(パニック)状態が起こっている。



物語(未来という物語)から 出て来なければならない。
本当に、実際に、
『いま、ここに、あるもの=この怒り』
に 焦点を当てる というだけのことだ。



『この体験と同時に、あらゆる不安は完全に消滅する。』

不安もまた 物語(幻想)が生み出したものである。
怒りという現実=感覚 に戻ってくるとき、不安を生み出す幻想はすでにない。

それがいかに不快であっても、
「今現在、感じている身体感覚」に戻ってくること。
これは 怒りに限ったことではないのかもしれない。



しかし、ガボールの言いたいことは、ここが本題ではない。

怒りの表明―境界を守るために一歩を踏み出す事は、自分自身を尊重することであり、 他者の境界を侵害してしまうのではないか というような心配こそは無用なのだ、と。